A級戦犯って何したの?誰のこと?知っておきたい判決と最終結末

裁きの解剖学:A級戦犯、極東国際軍事裁判、そしてサンフランシスコ平和条約の遺産に関する包括的調査報告書

A級戦犯とは聞いたコトあるけど、一体何をしたのか誰のことかもわからない。それじゃあオトナとして恥ずかしかったので、A級戦犯について調べてみた。

本レポートを読むと、A級戦犯とされた人たちが何をしてナゼ裁かれたのか、そして最後にはどうなったのかがわかる。ぜひ最後まで読んでほしい。

読者の皆様のご意見や感想をコメント頂けると幸いだ。

目次

概念的枠組みと法的起源

「A級戦犯」という呼称の発生と定義

「A級戦犯(Class A War Criminals)」という用語は、第二次世界大戦後の連合国による軍事裁判の管轄区分に由来する、極めて特殊的かつ歴史的な概念である。この分類は、単なる犯罪の凶悪度を示す等級(グレード)ではなく、追及されるべき国際法上の「罪の種類」による分類であることを、まずもって理解する必要がある。その根拠は、1946年1月19日にダグラス・マッカーサー元帥によって公布された「極東国際軍事裁判所条例(Charter of the International Military Tribunal for the Far East)」にある。

同条例は、裁判所の管轄権を以下の三つのカテゴリーに分類した。

A項:平和に対する罪 (Crimes against Peace)

宣戦を布告した戦争、あるいは布告しない侵略戦争、または国際法、条約、協定、誓約に違反する戦争の計画、準備、開始、あるいは遂行、もしくはこれらの行為のいずれかを達成するための共通の計画あるいは謀議への参加。

B項:通例の戦争犯罪 (Conventional War Crimes)

戦争の法規または慣例の違反。これには、捕虜の虐待、民間人の殺害、略奪などが含まれる。

C項:人道に対する罪 (Crimes against Humanity)

戦前または戦時中になされた殺人、殲滅、奴隷化、追放、その他の非人道的行為、もしくは政治的または人種的理由に基づく迫害行為。

一般に流布している誤解として、「A級」が最も罪が重く、「C級」が軽いという認識があるが、これは誤りである。A級とは、国家の指導者層が国家政策として侵略戦争を指導したことに対する罪であり、B級・C級は現場での残虐行為や非人道的行為に対する罪である。したがって、自らの手で捕虜を殺害した兵士はB級戦犯となるが、直接武器を手にしていなくても、開戦を決定した首相や閣僚はA級戦犯として訴追される。

いわゆるA級戦犯とは、この「平和に対する罪」によって極東国際軍事裁判所(東京裁判)に起訴された28名の被告人を指す。彼らは、日本の政治、外交、軍事の中枢にあった指導者たちであり、1928年から1945年にわたる日本の対外政策を犯罪的な「共同謀議」として断罪された人々である。

法的論争:事後法の禁止と「平和に対する罪」

A級戦犯という概念の核心には、近代刑法の根本原則である「法の不遡及(事後法の禁止)」、すなわち nullum crimen sine lege (法なくして罪なし)との衝突という重大な法的論争が存在する。

東京裁判の弁護団および一部の判事(特にインドのラダ・ビノード・パール判事)は、「平和に対する罪」は第二次世界大戦後に連合国が作り出した事後法であると主張した。彼らの論拠は、戦争行為そのものは国家主権の発動であり、当時の国際法において、侵略戦争は条約違反(不法行為)ではあり得ても、個人の刑事責任を問える「犯罪」としては確立していなかったという点にある。

これに対し、ジョセフ・キーナン首席検察官率いる検察側は、1928年のパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)によって、戦争はもはや国家政策の手段としての合法性を失っており、国際社会に対する犯罪へと変質していたと反論した。検察側は、ナチス・ドイツを裁いたニュルンベルク裁判の判例を引用し、国際法は静的なものではなく、人類の正義の要請に応じて進化するものであるという「動的国際法理論」を展開した。

この対立は、単なる法解釈の問題にとどまらず、A級戦犯が「文明の名による正義」の実現なのか、それとも「勝者による報復(Victor’s Justice)」なのかという、戦後70年以上続く歴史認識問題の淵源となっている。

極東国際軍事裁判(東京裁判)の構造と展開

裁判所の構成と国際的性格

極東国際軍事裁判は、東京の旧陸軍省庁舎(現・市ヶ谷記念館)を法廷として開廷された。裁判官は、日本と交戦状態にあった連合国11カ国(アメリカ、イギリス、ソ連、中国、フランス、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、フィリピン)から各1名が選出された。

この構成は、4カ国(米英仏ソ)のみで構成されたニュルンベルク裁判とは異なり、アジア諸国(中国、インド、フィリピン)の代表が含まれていた点に特徴がある。しかし、裁判長にはオーストラリアのウィリアム・ウェッブが就任し、検察団の主導権はアメリカのキーナン検事が握るなど、実質的にはアメリカの強い影響下にあったことは否定できない。

起訴状と「共同謀議」の理論

1946年4月29日に提出された起訴状は、全55訴因から成る膨大なものであった。その中核をなすのが、第1訴因から第36訴因までの「平和に対する罪」であり、特に第1訴因の「全期間にわたる侵略戦争の共同謀議」が最重要視された。

検察側は、1928年の張作霖爆殺事件から1945年の敗戦に至るまでの日本の行動を、一貫した「侵略のマスタープラン」に基づくものと捉えた。この「共同謀議(Conspiracy)」の理論は、英米法特有の概念を国際法に導入したものであり、個々の被告人が特定の戦争行為に関与していなくとも、全体としての侵略計画に参画していれば、その全責任を問えるという強力な法的武器であった。

これにより、満州事変のみに関与した陸軍大将と、太平洋戦争開戦時の文官閣僚が、同一の「犯罪的企て」の一部として裁かれることとなった。

被告人の選定とプロフィール

検察側は当初、約80名のA級戦犯容疑者を逮捕・収監していたが、最終的に起訴されたのは28名であった。彼らは日本の国家機構の頂点に位置する人物たちであり、その出自は陸軍、海軍、政治家、外交官、官僚、思想家と多岐にわたる。

軍部指導者層

東條英機(陸軍大将・元首相)

真珠湾攻撃時の首相であり、開戦の最高責任者として検察側の主たる標的となった。「戦争は自衛のためのやむを得ない措置であった」と主張しつつ、天皇への責任波及を防ぐべく、行政上の責任を一手に引き受ける姿勢を貫いた。

板垣征四郎(陸軍大将)

満州事変の首謀者の一人であり、その後陸軍大臣として日中戦争の拡大に関与した。中国戦線やシンガポールでの作戦指揮も問われた。

松井石根(陸軍大将)

南京攻略戦の司令官。本人は親中派を自認し、日中提携を唱えていたが、南京事件(南京大虐殺)を防げなかった「不作為」の責任(指揮官責任)を厳しく問われた。

土肥原賢二(陸軍大将)

「満州のローレンス」の異名をとり、諜報活動や謀略工作に従事。満州国建国や華北分離工作の中心人物とされた。

木村兵太郎(陸軍大将)

ビルマ方面軍司令官。泰緬鉄道建設における捕虜虐待などの残虐行為の責任を問われた。

武藤章(陸軍中将)

陸軍省軍務局長として、対米開戦に至る政策決定に関与。また、フィリピン戦線での残虐行為の責任も問われた。

文官・外交官・宮中グループ

広田弘毅(元首相・元外相)

文官として唯一死刑判決を受けた。外相として軍部の独走を追認し、対外強硬策を助長したとされた。彼の死刑判決には、ベルト・レーリンク判事などから強い疑問の声が上がった。

木戸幸一(内大臣)

昭和天皇の側近として、宮中と政府・軍部の調整役を果たした。彼の日記(「木戸日記」)は検察側の有力な証拠として採用されたが、同時に彼自身が軍部を抑制しようとした証拠ともなり、死刑を免れ終身刑となった。

重光葵(元外相)

ミズーリ号での降伏文書調印者。開戦には反対したが、戦時内閣の外相を務めた責任を問われた。禁固7年という最も軽い刑を受け、戦後政界に復帰した。

東郷茂徳(元外相)

開戦時と終戦時の外相。開戦回避に奔走したが果たせず、終戦工作にも尽力した。禁固20年の判決を受け、獄中で病死した。

思想家・官僚

大川周明(民間人)

「アジア主義」を唱え、軍部に思想的影響を与えたとして唯一民間人から起訴された。しかし、法廷で東條の頭を叩くなどの奇行を繰り返し、梅毒による精神障害と診断され免訴となった。

星野直樹(書記官長)

満州国の財政・経済運営を統括し、東條内閣の書記官長を務めた実務官僚。

主要なA級戦犯被告人と判決結果

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氏名主要経歴主な訴因判決備考
東條 英機首相、陸相侵略戦争の遂行死刑(絞首)1948年12月23日執行
板垣 征四郎陸相、関東軍参謀長満州事変、中国侵略死刑(絞首)同上
木村 兵太郎ビルマ方面軍司令官捕虜虐待、戦争遂行死刑(絞首)同上
土肥原 賢二奉天特務機関長中国侵略、麻薬取引死刑(絞首)同上
松井 石根中支那方面軍司令官南京事件の不作為死刑(絞首)同上(B級訴因での有罪が主)
武藤 章軍務局長捕虜虐待、戦争拡大死刑(絞首)同上
広田 弘毅首相、外相侵略政策の策定死刑(絞首)同上(唯一の文官死刑)
荒木 貞夫陸相、文相皇道派、思想教育終身禁固1955年仮釈放
木戸 幸一内大臣宮中工作終身禁固1955年仮釈放
重光 葵外相戦争遂行への協力禁固7年1950年仮釈放、後に外相復帰

※松岡洋右(元外相)と永野修身(元軍令部総長)は公判中に病死。大川周明は精神障害により免訴。

判決の深層と「勝者の裁き」論

判決の構成

1948年11月12日、裁判所は判決を言い渡した。生存していた25名の被告人全員が有罪とされた。

  • 絞首刑:7名
  • 終身禁固:16名
  • 有期禁固:2名(東郷茂徳20年、重光葵7年)

ニュルンベルク裁判では3名の無罪判決が出たのに対し、東京裁判では一人も無罪とならなかった事実は、裁判の厳格さを示す一方で、被告人選定の政治性(有罪確実な人物のみを選んだ可能性)を示唆する議論の種となっている。

少数意見(反対意見)の重要性

東京裁判の判決は、裁判官全員の一致によるものではなかった。11人の判事のうち、5人が別個意見または反対意見を提出するという、極めて異例の分裂を見せた。

ラダ・ビノード・パール判事(インド)

パール判事は、被告人全員の無罪を主張する長大な意見書を提出した。彼は、日本の戦争は欧米列強の帝国主義的包囲網に対する自衛行動としての側面が強いとし、「平和に対する罪」の事後法としての無効性を強く訴えた。彼の「時が熱狂と偏見をやわらげた暁には、正義の女神はその秤を平衡に保つであろう」という言葉は、後の日本の保守論壇における歴史修正主義の精神的支柱となった。

ベルト・レーリンク判事(オランダ)

レーリンク判事は、管轄権は認めたものの、事実認定において多数派判決に異議を唱えた。特に広田弘毅の死刑判決には強く反対し、文官が軍部の暴走を止められなかったことをもって死刑に処すのは不当であると論じた。また、彼は「勝者もまた裁かれるべきである」とし、連合国側の戦争犯罪(原爆投下やソ連の参戦経緯など)が不問に付されたことへの懸念を示唆した。

アンリ・ベルナール判事(フランス)

手続き上の欠陥を指摘し、特に天皇の訴追がなされなかったことで、戦争責任の全容解明が不可能になったと批判した。

これらの反対意見は、裁判の正当性に揺らぎを与え、A級戦犯の法的・道義的責任に関する議論が戦後日本社会で決着しない一因となっている。

サンフランシスコ平和条約と第11条の解釈

A級戦犯の問題を現代の外交・政治問題として複雑化させている最大の要因は、1951年9月8日に調印された「日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)」第11条の解釈にある。

第11条の条文とその重み

第11条は、日本が独立を回復し国際社会に復帰するための「手形」とも言える条項である。

第11条
日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。

原文(英語)では “Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East…” となっており、”judgments”(判決、裁決)の受諾を明記している。

「受諾」の中身:裁判か、結果か

この条項の解釈を巡り、日本国内では「受諾」の範囲について二つの対立する見解が存在し続けている。

全面受諾説(外務省・国際法通説)

日本は裁判の結論(刑の執行)だけでなく、その基礎となった事実認定や法理(侵略戦争の認定、A級戦犯の犯罪性)も含めて受諾したとする立場。日本政府の公式見解は一貫してこれに近く、これを受諾したからこそ講和が成立したとする。2005年の野田佳彦議員(当時)の質問主意書に対する政府答弁書でも、「極東国際軍事裁判所の裁判を受諾している」と明言されている。

結果受諾説(主権回復論・修正主義)

日本が受諾したのは「諸判決(judgments)」の結果としての「刑の執行」のみであり、裁判の歴史観や法理まで受け入れたわけではないとする立場。英語の “judgments” は法的な結論を指すものであり、判決理由(Reasons for Judgment)まで拘束されるものではないという解釈である。この立場によれば、独立回復後の日本は、国内法手続きにおいて彼らの名誉を回復する権利を有する。

この解釈のズレが、後述する国内法での復権措置と、国際的な公約との間の「二重基準(ダブルスタンダード)」を生む土壌となった。

国内法による復権と「逆コース」

占領が終了し、日本が主権を回復した1952年以降、国内ではA級戦犯の釈放と名誉回復を求める運動が急速に高まった。これには、戦犯家族への同情だけでなく、「東京裁判は不当であった」という国民感情が背景にあった。

4000万人の署名と国会決議

1952年から1953年にかけて、戦犯の釈放を求める署名運動が全国的に展開され、その数は4000万筆(当時の人口の過半数に近い)に達したとされる。この世論を背景に、国会は次々と法整備を進めた。

1952年:戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)の改正

当初、戦犯として処刑された者や獄死した者の遺族は年金の支給対象外であったが、改正により、彼らの死は「公務死」と同様に扱われ、遺族年金や弔慰金の支給対象となった。これにより、日本国内の行政手続き上、A級戦犯は「犯罪者」ではなく「国難に殉じた者」として扱われることになった

1953年8月:全会一致の国会決議

衆議院において「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択され、政府に対して関係国への釈放働きかけを求めた。

刑死者・受刑者の法的地位の変容

さらに、「恩赦法」の運用により、生存していた戦犯たちの減刑・釈放が進んだ。1958年までに、全てのA級戦犯関係者が釈放された。釈放された者たちは、公職選挙法の被選挙権を回復し、社会の第一線に復帰した。

  • 重光葵は釈放後、改進党総裁、そして外務大臣となり、日本の国連加盟を実現させた。
  • 賀屋興宣(元蔵相)は自民党政調会長や法務大臣を歴任した。
  • 岸信介(元商工相・東條内閣閣僚)は、A級戦犯容疑者として逮捕されたものの不起訴となり、後に首相(1957-1960)として日米安保改定を成し遂げた。

このように、国内法的には彼らの「罪」は消滅し、名誉は回復された。しかし、対外的にはサンフランシスコ平和条約第11条により「戦犯」としての地位が固定されている。この「内」と「外」の乖離が、後の靖国問題で爆発することになる。

2005年、野田佳彦議員は「A級戦犯は戦争犯罪人ではない」とする趣旨の質問主意書を提出した。これに対し小泉純一郎内閣は、「国内法上は刑の言い渡しを受けた者としての権利が回復されている」としつつも、「対外的には裁判を受諾している」という苦しい答弁を行い、この矛盾を露呈させた。

靖国神社合祀問題と歴史の政治化

A級戦犯問題が、単なる歴史の議論を超えて現代の外交摩擦の火種となった決定的な転換点は、靖国神社への合祀である。

1978年の秘密合祀

靖国神社は、明治維新以降の国事に殉じた人々の霊(英霊)を祀る宗教施設である。戦後、BC級戦犯や収容所での病死者は徐々に合祀されていったが、A級戦犯については慎重な扱いが続いていた。

しかし、1978年10月17日、当時の松平永芳宮司の判断により、極東国際軍事裁判で絞首刑となった7名と、獄中で死亡した7名、計14名のA級戦犯が「昭和殉難者」として秘密裏に合祀された。松平宮司は「東京裁判の判決は国際法違反であり、彼らは犯罪者ではない」という確固たる信念を持っていたとされる。

この事実は1979年にスクープされ、大きな波紋を呼んだ。

昭和天皇の「不快感」と御親拝の中止

合祀の影響を最も重く受け止めたのは昭和天皇であった。2006年に発見された「富田メモ」(元宮内庁長官・富田朝彦の手帳)によれば、昭和天皇はA級戦犯の合祀を知り、「私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と述べたとされる。事実、1975年を最後に、昭和天皇および現在の天皇陛下(上皇陛下、今上陛下含む)による靖国神社親拝は行われていない。

これは、A級戦犯の合祀が、単に近隣諸国との問題だけでなく、日本の皇室という精神的支柱とも相容れない事態を引き起こしたことを意味している。

首相参拝と外交問題化

1985年の中曽根康弘首相による公式参拝以降、中国および韓国は日本の首相による靖国参拝を「侵略戦争の美化」「A級戦犯への崇拝」として激しく非難するようになった。 小泉純一郎首相(2001-2006在任)は「心の問題」として毎年の参拝を強行したが、これにより日中・日韓首脳会談が中断するなど、外交関係は極度に悪化した。 中国・韓国側の論理は、「A級戦犯はアジアの人々を苦しめた張本人であり、彼らを国の指導者が英雄として祀ることは、過去の反省を否定するものだ」というものである。一方、日本国内の保守派は「死ねば皆神(仏)になるという日本人の死生観への干渉だ」と反発する。

この対立を解消する案として、A級戦犯の霊を靖国神社から切り離す「分祀」論も浮上したが、靖国神社側は神道の教義上「一度祀った霊(座)を分けることは不可能」として拒否している。

諸外国との関係・比較視点

日独の比較:なぜ日本は「終わらない」のか

戦後処理において、日本とドイツはしばしば対比される。ドイツ(ニュルンベルク裁判)では、ナチス指導部の犯罪性が徹底的に糾弾され、国内法でもナチスの礼賛は厳しく禁じられた。「人道に対する罪(ホロコースト)」への反省が国家アイデンティティの中心に据えられたため、A級戦犯に相当する人物の名誉回復論は主流にならなかった。

対して日本では、「平和に対する罪」への反発が強く、また天皇が訴追されなかったことで、戦争責任の所在が曖昧になった。さらに、アメリカが冷戦戦略の中で日本の保守勢力(旧指導層含む)を復権させ、反共の防波堤として利用したこと(逆コース)が、A級戦犯の政治的復権を容易にした。この歴史的経緯の違いが、周辺国との和解を困難にしている。

アメリカの視点

アメリカにとって、A級戦犯問題は二面性を持つ。 一方で、東京裁判はアメリカ主導の戦後秩序の正当性の源泉であり、日本政府が裁判の結果を否定することは(サンフランシスコ体制への挑戦として)容認できない。2007年の米下院決議121号(慰安婦問題)や、2013年の安倍晋三首相の靖国参拝に対する「失望(disappointed)」表明に見られるように、アメリカは歴史修正主義的な動きには警戒感を示す。 他方で、安全保障上、日本は不可欠な同盟国であり、過去の戦争犯罪を蒸し返して同盟を弱体化させることは望んでいない。アメリカは、日本が「裁判を受諾」しているという公式見解を維持する限り、国内での解釈論には深く介入しないという実利的な態度をとっている。

中国・韓国の視点

中韓にとって、A級戦犯は単なる過去の人物ではなく、現在の日本の「右傾化」や「軍国主義復活」の象徴として機能している。特に中国共産党にとっては、抗日戦争の勝利が党の正統性の根拠となっているため、A級戦犯を断罪し続けることは国内統治上の必要性とも結びついている。韓国においても、植民地支配の違法性とセットで語られ、国民感情を刺激する最も敏感なスイッチとなっている。

結論

「A級戦犯」とは、法的には極東国際軍事裁判によって平和に対する罪で有罪判決を受けた28名の指導者たちである。しかし、歴史的・政治的文脈において、彼らは以下の三つの異なる顔を持つ存在となっている。

国際法上の犯罪者

サンフランシスコ平和条約第11条により、日本が国家としてその有罪判決を受諾した存在。

国内法上の復権者

遺族年金の支給対象であり、名誉を回復した「公務死」相当の存在。

外交上の火種

靖国神社に祀られることで、日本の歴史認識を巡る国際的対立の象徴となった存在。

なぜ彼らがA級戦犯になったのか。それは、当時の国際社会が「侵略戦争の計画・遂行」を個人の犯罪として処罰するという新しい法規範を打ち立て、その適用対象として日本の指導部を選んだからである。 そして、なぜ今日まで問題が続くのか。それは、日本が講和条約で彼らの「罪」を受け入れて国際社会に復帰したにもかかわらず、国内的にはその「罪」を曖昧化あるいは否定するプロセスを経て戦後復興を遂げたという、解決されていない「二重性」が残存しているからである。

A級戦犯の問題を理解することは、単に過去の裁判を学ぶことではない。それは、日本がいかにして戦後の平和と繁栄を築き上げたか、その過程で何を封印し、どのような矛盾を抱え込んだかという、日本の戦後史そのものを直視することに他ならない。

付録:データで見るA級戦犯

極東国際軍事裁判 裁判官一覧

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選出管区氏名判決態度備考
オーストラリアウィリアム・ウェッブ裁判長天皇不起訴に不満を示唆
アメリカジョン・P・ヒギンズ
(後にマイロン・C・クレイマー)
多数派キーナン検事と同国だが別組織
イギリスパトリック・デルヴィン
(後にウィリアム・パトリック)
多数派
ソ連I・M・ザリヤノフ多数派最も強硬に厳罰を主張
中国梅汝璈(メイ・ジュオ)多数派審理の遅延に苛立ち、厳罰を要求
フランスアンリ・ベルナール反対意見手続きの不備と天皇不起訴を批判
オランダベルト・レーリンク反対意見広田弘毅らの無罪を主張
インドラダ・ビノード・パール反対意見全員無罪を主張(法の不遡及)
フィリピンデルフィン・ハラニーリャ別個意見より厳格な処罰を主張(自身も元捕虜)
カナダE・S・マクドゥガル多数派
ニュージーランドエリマ・ハーベー・ノースクロフト多数派

<参考文献・出典>
本レポートで参照した主な情報源および関連リンクは以下の通りです。

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